なんとなく、あの人と話した後、
どっと疲れる、
別段、文句を言われたり
気まずい喧嘩があったわけでもないのに、
なんか後味の悪い疲れを感じる、
そんな経験はありませんか?
気持ちの良いコミュニケーションと
疲れるコミュニケーションの違いは
どこにあるのでしょうか?
例えば、
荷物を持っている人が、
「ああ・・・重い・・・」と
つぶやいて、ちらとあなたを見る、
「荷物運ぶの、手伝ってほしい」と
言えばいい状況で、
上のような言い回しをされたとき、
あなたは相手の言わんとすることを
察する必要があり、
察しないことに罪悪感を感じたりもして、
疲れてしまいます。
こういう言い方を
「受動的行動」と言います。
「受動的行動」とは、
問題解決に能動的に取り組めるときに
そういう行動を自分では取らず、
誰かが、問題解決してくれることを
期待する行動のこと、です。
実は日本では、昔から
こういった表現を「察する文化」と呼び、
貴んできた歴史があります。
全部を語らなくても、
表情や態度、ちょっとした視線などから
相手の感情を察し、
相手の望む行動を自らとる、
そういう人が気の利く人だ、
と言われて育った人が多かったし、
それが良いことだ、と
無条件に信じさせられてきた歴史がある、
と私は思っています。
しかし、
今、例えばアサーションなど
自己主張の技術が海外から入ってきて、
この「受動的行動」は、
良くないことだ、
というように、変化しています。
確かに察することを
必要以上に求められる時、
人は、疲れます。
その疲れは何なのか、と考えると
何故、私は察する人、
あなたは、察してもらう人なの?
という不公平感があるからでは
ないでしょうか?
「受動行動」の中には、
過剰適応というタイプもあります。
手の届くところにある調味料を
母が察して父に取ってあげる、
子どもが質問されているのに、
母が代わりに返事をしてあげる、
母親の不機嫌な顔を察して
先回りして、
気に入りそうなことをする子ども、
過剰に察することを自分に強いて、
相手の力を軽んじ、
コントロールしていることに、
気づかないでいるタイプです。
察した相手の表現力を奪い、
察してもらうことが当たり前の人を
育てていることになり、
最終的に
気持ち良い人間関係を作ることは
きわめて難しくなります。
私たちは日本人としての美徳であった
察する文化に、
価値を置きすぎてきたのかもしれません。
今は
逆に関係性を悪化させているかもしれない
「受動行動」について、
もっと学ぶ必要がある時代とも言えます。
察する人、察することを求める人、
この上下関係から、
相手の思いも尊重するが
自分の思いも尊重する、
対等な対話の技術を
初めて学ぶ必要があります。
そういえば、マウントを取られた、
という言い方は
いつ頃から出てきたのでしょうか?
それって、
上下関係を、当たり前のように取られることに
違和感があって初めて、
生まれた言葉じゃないでしょうか?
今、マウントを取られたくない、
という思いの人が増えている、
その時代の変化が
私には、見えるような気がします。
あなたはどう思いますか?
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