元気塾Blog

「心がすでに知っていた」ことに気づく

ひとり

先日、アサーションの入門編に
初めて参加された男性が、
こんなことを言っていました。

率直に言うというワークの中で
「先約があるので、その日は参加できません。」

この、できません、という言い切りをしてみて
想像していたのと違って、
とても爽やかな気分になった、と。

それまでは、きついと思われないか、とか、
乱暴に聞こえないか、とか
ごちゃごちゃ思い、言い切ることをしてこなかった、
でもやってみたら、びっくりするほど
スキっと爽やかだった、というのです。

吉田松陰が松下村塾で教えたのは
陽明学だったそうで、
その中に「心即理」という言葉があります。

難しいことはともかく、
「頭で考えて分かる」のではなく、
「心の中ですでに物事の正しい道筋を知っている」
というような意味です。

かれはワークをやってみて、
すでにそれが爽やかであることを
心が知っていたことに気づいた、のかもしれません。

やってみて気づく、
まるで前から知っていたことのように、
ああ、これこれ、という
少し懐かしいような、
しっくりハマるような、

そんな体験を、
あなたもしたことがありませんか?

探し物をしていて、
さんざん探して見つからず、
諦めかけた頃に、偶然見つけて、
あ、そうだった、ここにしまったんだった、
と、自分の行動を思い出すことがあります。

これも、心の深いところで
自分がそこにしまったことを知っていて、
ただ、それを忘れてただけだから
ああ、そうそうと、しっくり辻褄が合う気がする、

つまり心は、知っていた、ということ。

他には、自分のことじゃなく、
誰かの本を読んでいたり、
誰かの話を聞いている時に、
やはり、同じような感覚を覚えることがあります。

あ、そうそう、それだ!という感覚。
ひとつの文章や、言葉が
ぴかっと光るように目に飛び込んでくる、

探し物を見つけた時のような
同じ、しっくりくる感じ。

そうだ、それが言いたかったのだ、とか
その言葉を探していたんだ、とか
つまり、それは
私の心が、深い所ですでに知っていた、
ということなんじゃないか、

受講生の男性が、爽やかだった、と
言った時、
かれの心は、それが爽やかだと
知っていた気がします。
腑に落ちたように、笑顔でした。

「心はすでに知っている」というのは、
本当に深い意味がある言葉だと思いました。

私たちは、もしかしたら
近代科学主義の知識によって
曇らされた「心」を、
感じ取る力が
弱くなっているのかもしれません。

心を鍛える、というよりも
心を磨き、
その心に映し出されるものを感じる、

それだけでいいのかもしれませんね。

 

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