「死をどう考えるか」抜きで健康は語れない
命を救うことが医者の仕事だから
死は、医学にとって敗北なのか・・・
もしくは、医学から見て「死」は枠外なのか。
ふっと最近、「死」をどう考えるかを抜きにして
真の健康は語れないなぁと思い始めました。
だいぶ前に
「おくりびと」という映画が話題になりましたが、
この原作となった『納棺夫日記』の中に
末期患者には
激励は酷で
善意は哀しい、説法も言葉もいらないのだ。
きれいな青空のような
瞳をした
すきとおった風のような人が
そばにいるだけでいい
という所があります。
これは、別段、末期患者でなくても
死を目の前にした老人であっても同じことだなぁと思います。
最近は、母を見舞うたびに
頑張れとか、もっと食べようとか言うことが
少なくなってきました。
ただ、ニコニコ笑ってそばにいればいい
という気がしています。
宮沢賢治『注文の多い料理店』序文
実はこの「すきとおった風」という言葉は、
宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文に
出てくる言葉なんですね~
久しぶりに引っ張り出して読んでみた。
わたしたちは、
氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、
ももいろの
うつくしい朝の日光をのむことができます。中略
わたくしは、
これらのちいさなものがたりの
幾いくきれかが、おしまい、
あなたのすきとおった
ほんとうのたべものになることを、
どんなにねがうかわかりません。
私たちは
生と死と病苦と老いることから
逃げることができないのなら
なんとかそれをすきとおった
きれいなたべものとしてのみこめる力が欲しいものです。
★もっと知りたい、気になる記事はコチラ
この記事へのコメントはありません。