先日、養老孟司さんのYouTubeを見ていたら
面白いことを言ってました。
全ての人間は
それぞれに全く違う世界を見ている、と。
抽象的な意味ではなく、
まさに文字通りの意味で、です。
立っている場所によって、
そこから見えるものの映像は異なる、
見ている日時によっても異なる、
誰一人、同じものを見ることはできない。
考えてみれば確かにそうです。
動画一つでも
その時その場で置くカメラの位置
それは一度きりの特別な視点。
あなたが見ている世界と
私が見ている世界は
あなたと私の立ち位置が異なる以上、
違うのが当たり前、
なるほど・・・・
これが正しい、とか
これが普通だ、とか
これが当たり前でしょ、とか
そういうこと自体が最初から
ムリなんだなぁと
改めて感じます。
見えている世界が違うのですから、
「正しい」も人によって異なるでしょう。
ただ人は理解して欲しい生き物です。
分かってもらえた、と感じたい、
なので、
「同じ」であることを
長い間、共通前提としたかったのかもしれません。
「あなたって変わっているね」
と言われることで
不安になる人が多かった昔、
少しずつ、変わっていることは良いことだ、
個性的ってことだよね、と
ニコニコする人が増えている昨今。
1人ひとり、人間は違う、
それを、是認し
それを前提として人を見る
そんなふうに変化してきているような気がします。
1人ひとり、人は根本的に違うのだとすれば、
そこで必要とされるコミュニケーションとは、
昔のようにマナーとしての良い悪いや、
察する言葉や、いわゆるクッション言葉や
共通の認識を前提とした言い回しは
そろそろ、
リスキリングする必要があるのではないでしょうか。
コミュニケーションでうまくいかない例を見るたび、
出てくるのは、
普通はこうだよね、という言葉。
そこには普通でない相手を
否定したい気持ち、怒りが見え隠れします。
「普通」という言葉が、
常に自分を基準とした「普通」であって、
世間一般の「普通」などというものはない、と
本当に分かってから、
言葉は変わってくるような気がします。
「あなたはそんな風に感じるのですね」
と受け止める、
「私はこんな風に感じるんです」と開いて見せる、
ただこれだけで、
関係性は変化していくような気がします。
このブログでも
これって変じゃない?という
テーマや情報をたくさん上げているけれど、
どこかでバランスを取っていかないと
精神的オルトレキシアになってしまう、
(*オルトレキシア:健康に良いと言われるものしか
食べられない新型摂食障害)
これを変だとは思わない人もいる、
ということを、
いつも心に止めておきたいものです。
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