私は前から本にすぐドッグイヤーを作ったり
傍線を引いたりする癖があります。
あ、ドッグイヤーとは、ページの上か下の端を折って
後からそのページがすぐわかるようにすることです。
なので、私がちゃんと読んだ本は
後に古本屋に売れません。
さて、私の師匠は
本に傍線を引くことを嫌がります。
理由は、
学ぶ前から、キミには
大事なところと、そうでないところの区別が
つくのかね?というワケです。
つまり、傍線を引く、
ここが大事だ、と思いながら、
では、それ以外のところは
たいして大事じゃないと思っている、
つまり、今の自分の知識や経験で
新しく学ぶものに対して
評価しているわけです。
評価できるんだったら、
もう学ぶ必要はないよね、ということなのです。
うーん・・・・
これは長い間、やっぱり謎でした。
私たちは新しい学びに触れる時、
やっぱり、過去の自分の知識や経験を総動員して
目の前の新しい学びを理解しようとするわけです。
たとえば、
あ、この部分は、もしかして
〇〇さんが言ってた▲▲の考え方と似てるな、とか
この部分は、自分が当然そうだ、と考えていたことと
真反対だよな、なんでだろう?とか
でも、師匠はそれこそが、
学びの邪魔になる、というのです。
学ぶということは、
それが書物であれ、講座であれ、
著者、または講師が本当に伝えたいことは何か?
という姿勢で、
心を空っぽにして聞く、
最初から最後まで
何をこの人は伝えたいのかに耳をすます、
ただそれだけだ、と言うのです。
そうなんだ、
これって要するに「傾聴」のことだったんだ、
と、今ならわかる気がします。
初めて読む本、
その著者が本当に伝えたいものを
読む前から知っているわけはないので、
読んだ瞬間に、傍線をひくこと自体、
確かに傾聴の姿勢から
外れています。
そうすると、
私は、はたと考えてしまいました。
講座の前に、今日の参加目的は?
と、受講生によく聞くことがあります。
でもそれ、
なんだか違うのかなぁ・・・
それまでは目的を明確にすることこそが
得られるものを大きくする、
ボーっと受け身で受講するより、
これこれを学びたい、ここを理解したい、など
目的が明確な方が学びが大きくなる、
と、固く信じていたのです。
でも、参加目的という言葉を使うと、
その時点で、自分の欲しいものに焦点が当たってしまう、
情報を得るだけの講座なら
それでもいいかもしれません。
自分の知っていることはすっ飛ばして
目新しい、知らない情報だけに焦点を当てる、
つまり、
つまみ食い的受講になってしまうのではないか、と。
自分の知りたいことを知る、という姿勢は、
講師(著者)の真に伝えたいことに耳をすます、
とは全く逆の姿勢じゃないか、
と、思ったのです。
赤や青で傍線を引くという行為を
師匠が戒めた理由が分かった気がしました。
それほど、他者を理解しようとする姿勢がない、
ないことにすら、気づいていない私たち。
耳があれど聴こえず、
目があれど見えず、
そんな状態で私たちは学んでいるのだ。
本に傍線を引く、ということを通して、
師匠はそれを伝えたかったのか、
と、ようやく腑に落ちた気がしました。
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