元気塾Blog

怒りはコントロールすべきものか?

以前、「怒りをコントロールする」
について書いたことがあります。

私はこの言い方が嫌いで
なのでアンガーマネジメントも
あまり好きじゃなかった。

怒りはコントロールすべき忌まわしい感情、
そしてコントロールできるもの、という
プラグマティックな匂いに抵抗感がありました。

■『怒る勇気』 岸見一郎著

みなんさん、よくご存じの
『嫌われる勇気』で
一躍アドラー思想を世に広めた方ですね。

さて、この『怒る勇気』で彼は、
怒りを、私憤と公憤に分けて述べています。

私的で衝動的、感情的な憤りは無益だが
社会正義に照らし、
間違っていることに憤りをもつことは
知性的な憤りであり、それは必要である、と。

ここにもやはり、
「感情」を「知性」でコントロールすべき
悪しきもの、という視点を感じてしまいます。

本当にそうなんでしょうか?

怒りが、人を傷つけたり攻撃する道具として
多く用いられてきたことは事実です。
怒りが人に与える影響力の大きさも、
破壊力としての威力も。

人がこの「怒り」を何とかしようと
様々な方法を試みてきたことも、確かでしょう。

しかし、岸見さんのように、
私憤と公憤などというような区分で
簡単に処理できるものなのだろうか、と
改めて疑問に思いました。

彼は公憤をこのように定義しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人間の尊厳、人格の独立性、
価値を脅かされ、侵害される時に感じるもの、
パワハラやセクハラ、人権侵害などに対するもの、

根底に正義感があり、
個人的な名誉や利害を守るためのものではない怒り、
それは感情というより知性である、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここでもまた、感情より知性を上位に置いている、
つまり感情は
知性でコントロールされるべきものだ、ということですね。

彼の言う公憤とは、感情ではなくイデオロギーなのか、
とさえ思います。

私は感情とは、どこまでいっても個的なもので
誰かに強要・強制されるような性格のものではない
と思っています。

しかし、イデオロギーは、
正義という名のもとに、
ある価値観や信念を、
それに反する価値観や信念への対抗に、

集団の怒りという感情を利用して、
推し進めようとします。

政治家がやっていることは
全てこれです。

「正義感に守られた怒り」ほど
うっとうしいものはない、

私は、そう感じてしまいます。

世界で起きている紛争は全て、
それぞれの「正義」を
守るという建前から起きているからです。

ロシアはロシアの正義、
ウクライナはウクライナの正義です。

私たちは、そんなイデオロギーとは関係なく、
本当の意味で自分の感情を、
きちんと見つめる必要があります。

感情とは、
どこまでいっても個的なものです。
あなたのもの、なのです。

他者が感じるように感じる必要はない、
あなたは、あなたが感じるように感じればいいのです。

そしてその感じ方を大切にしてほしい。

何故なら、感情とは唯一無二の、
「あなた」を表現する
ものすごく大きな手掛かりだからです。

 

そして、感情に良い悪いとレッテルを貼ることではなく、
ありのままの感情をまずは認める。
そして、コントロールするのではなく、
その感情をどう「表現するか」を考える。

「表現」という時、必ず対象(相手)がいます。

その対象にどういう伝え方をするのがベストなのか、
まさに楽器を演奏するように、
どういう音なら相手に届くのか、を考える、

それが表現です。

感情、この素晴らしくて
でも少し厄介なモノ、について、

福谷と少し話をしてみませんか?

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